2012年3月8日木曜日

大阪で3人の若者にメチャクチャに暴行されて死亡。無抵抗を選んで殺されたネパール人の無念を思う



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皆さんは、この記事を読んでどうお考えでしょう???
日本人として、恥ずかしく思いませんか???
日本人は、『心の壊れた』民族なのでしょうか???


現代ビジネス(全文引用)
経済の死角
2012年02月28日(火) 週刊現代

大阪で3人の若者にメチャクチャに暴行されて死亡 
殴られても殴り返さなかった 
無抵抗を選んで殺されたネパール人の無念を思う



(1)http://gendai.ismedia.jp/articles/-/31899

 心優しい人々の国から来た好漢は、何の落ち度もないのに命を奪われた。なぜこんな惨劇が起こったのか。なぜ彼は、理不尽な暴力を受けながら、最後まで「反撃しない勇気」を持ち続けられたのか。

同行者にも「手を出すな」と

やれ肩が触れた、目が合ったと言いがかりをつける。言われた方もキレて怒鳴り返す。あっという間に殴り合いの大ゲンカ---。今の日本でしばしば起こる、悲しく殺伐とした出来事だ。
 ところが、深夜の路上で酔った若者たちに因縁をつけられ、殴る蹴るの暴行を受けても反撃せず、無抵抗のまま尊い命を落とした人がいる。在日ネパール人のビシュヌ・プラサド・ダマラさん(享年42)だ。
 惨劇が起きたのは、1月16日の午前4時過ぎ。大阪市天王寺区でネパール料理店を経営するダマラさんは、前夜からネパール人の仲間たちと飲食を楽しんだ後、20代の従業員2人を送ろうと同市阿倍野区松崎町を歩いていた。
 そこへからんできたのが男2人、女2人の若者4人組。皆、21~22歳と成人して間もない年齢だ。彼らは突然、「お前らのせいで転んだ」などとダマラさんたちに因縁をつけ、殴りかかってきた。
 ダマラさんはとっさに「手を出すな!」とネパール語で従業員たちに言い、あとはまったく抵抗しなかった。倒れたダマラさんに、若者グループのうち3人が襲いかかり、特に顔や頭を執拗に蹴り続けた。ついには近くにあった自転車を持ち上げて、何度も身体に叩きつけたという。
 結局、ダマラさんは外傷性急性脳腫脹で亡くなった。若者3人は殺人罪で起訴されている。
 ネパール商工会議所日本代表のディネス・シュレスタさん(51歳)が言う。
「僕はその日の朝8時半頃、ネパール人の後輩から電話で事件を知らされました。詳細がわからないまま、朝日新聞の夕刊などに『ケンカ』と書かれたの を読み、最初は『ケンカなら、ダマラさんや一緒にいたネパール人にも落ち度があったのかもしれない』と考えた。ところがその後、たまたま暴行の様子を写し ていた監視カメラの記録で、彼は一切反撃していないことがわかったのです。
 ダマラさんも本当は、やり返したい気持ちがどこかにあったのかもしれません。しかし、自分がやり返してケンカになると、ネパール人全体が悪い集団のように日本で思われてしまう。それを避けたくて、自分を抑えたのでしょう」
 突然の襲撃に対し、瞬時に無抵抗を決意するだけでなく、同行者たちにも「手を出すな」と命じるとは、生半可な覚悟でできることではない。しかし、同じ心構えを持っているネパール人は少なくないという。シュレスタさんが続ける。
(2)http://gendai.ismedia.jp/articles/-/31899?page=2
「前から在日ネパール人の間で『日本で争いごとになったら、文句を言うのはいいが、絶対に手は出すな』という教えを共有し、新たに来日する同胞に伝えています。『一人一人がネパール大使になったつもりで振る舞おう』ということです。
 ネパールには約40の民族がいますが、皆、総じてケンカを好まない。いざというときには勇敢に戦いますが、普段は心の優しい人たちが多いんです」
 穏やかなネパール人の中でも、ダマラさんはひときわ温厚な人柄で、若い同胞たちに慕われていたという。'00年に来日し、工場や飲食店で働いた後、ようやく昨年7月に念願のネパール料理店をオープン。そのわずか半年後の悲劇だった。

見て見ぬふりをした人たち

友人のディワカル・タパさん(36歳)は言う。
「ダマラさんと僕はほぼ同時期に日本に来たんですが、その頃、心斎橋の飲み屋で偶然会ったんです。『あれ、君もひょっとしてネパール人?』という感 じで声をかけ合って、意気投合しましてね。それ以降、飲みに行ったり、日本語の勉強について相談したり、『ネパールを発展させるには何をすべきか』を議論 したりして、10年も楽しく友達づき合いをしてきました。今回の事件は、なぜ彼にこんなことが起こったのかと、悲しい気持ちで一杯です」
 ダマラさんは普段もネパール人仲間に「ケンカをするな。暴力をふるわれてもやり返すな」と諭していた。結局、自分の言葉に殉じて亡くなったことになる。
 もちろん、「許せない」と怒りをあらわにするネパール人もいた。しかし前出のシュレスタさんは、
「熱くなっても何も解決しないし、ダマラさんも戻ってこない。それよりも冷静になって話し合おう」
 と言って怒りの声を抑えた。興奮したネパール人がまた日本人とケンカなどしようものなら、事態はさらに悪化する---そんな心配が頭を離れなかったのだ。シュレスタさんは語る。
「事件の直後、あるテレビ局の記者から『なぜ怒らないのですか』と聞かれたことがあります。僕は『怒って何が解決するのですか。怒るより大事なことがあります』と答えました。大事なこと、それは『なぜこんな事件が起きたかを徹底的に考えること』です。
 今回、監視カメラが撮った映像を見て、非常に驚いたことがあります。ダマラさんが殴られ、蹴られている後ろを、人が歩いているのです。でも、目の 前の暴行を誰も止めようとしない。夜中にやっている飲食店も近くに数軒あるのに、誰も出てこない。これには考えさせられました。
(3)http://gendai.ismedia.jp/articles/-/31899?page=3

 きっと皆、『止めに入ると自分がやられる』と身の危険を感じたのでしょう。でも社会というのは、一人一人の個人が集まって成り立っています。個々 の人間が暴力を止めようとしなければ、いつまで経っても社会は暴力を止められません。そういう大きな問題が、今回の事件を生んだ原因の一つにあると思うの です」
 シュレスタさんのオフィスに近い商店街には、段ボールの中で寝泊まりするホームレスの人たちがいる。そこでは場所取りのケンカが起こったり、不届 き者が年老いたホームレスを殴ったり、といったことも起こる。シュレスタさんにとっては、暴行自体よりも、ホームレスの老人への殴打を誰もが見て見ぬふり をして通り過ぎる光景の方が異様だ。「僕らネパール人が傍にいたら必ず止めに入ります。強い者が弱い者に暴力をふるうのは見ていられません」ときっぱり言 う。
 前出のタパさんは語る。
「僕は映画『三丁目の夕日』が好きなんです。人々が周りのことをいつも気にかけ、カラーテレビを買った家庭があれば皆で見に押しかけ、瓶ビールを 持って隣の家を訪ね・・・・・・という世界。しかし今の日本では、そういう温かい人間関係も思いやりも、すっかり少なくなってしまったように見えます。 皆、他人に無関心。ダマラさんの事件も、本当はそれによって起こったのではないでしょうか」

日本人は変わってしまったのか

もちろん、直接的にダマラさんの命を奪ったのは若者3人によるメチャクチャな暴行であり、彼らが厳しく罰せられなければならないのは当然だ。もし犯人たちと話せたら何と語りかけますか? という質問に、シュレスタさんはしばし考えてからこう答えた。
「自分が本当に悪いことをしたと気づいて、ダマラさんの魂に謝ってほしい。ご遺族に対して謝ってほしい。そう言います。
 犯人たちは自らの人生も台無しにした。もし彼らが真に罪を悔いて謝罪をすれば、次に悪事を働こうとしている人たちを止める大きなメッセージになる。そして、多くの人の心を癒すことにもつながります。
 今、たくさんの人が心を痛めています。最も傷ついているのはご遺族の心です。同時に、犯人たちの家族も心を痛めているはず。両親、お祖父さんやお祖母さん、兄弟姉妹、親戚・・・・・・。
 また、犯人と関係ないのに事件のことを聞いて心を痛め、僕たちに『日本人として申し訳ない』と謝ってこられる人もいる。ネパール人が被害者なので 特殊な事件に思われがちですが、日本人であるダマラさんの奥様をはじめ、多くの日本人が心を痛めている、日本の事件とも言えるのです。
 もちろん、人々の心の傷を癒すのは簡単ではありません。でも、犯人たちがダマラさんの魂とご遺族に真剣に謝ることは、その第一歩になるのです」
 シュレスタさんが初めて日本に来たのは'84年。以来28年間、日本に対して悪い感情を持ったことは一度もない。日本人の親切さや細やかな気配りには感謝するばかりだったという。
(4)http://gendai.ismedia.jp/articles/-/31899?page=4

 天理大学や大阪工業大学に通っていた学生時代、シュレスタさんは「10円さえあればどこからでも家に帰れる」と思っていた。終電を逃しても、10 円玉を公衆電話に投じて連絡すれば、夜中でも車で迎えに来てくれる友達が何人もいたからだ。道に迷ったとき、通りがかりの人がわざわざ目的地まで案内して くれた経験も何度もある。「日本人の優しさは本当に素晴らしい」とシュレスタさんは語る。そしてその優しさを、亡くなったダマラさんも愛していたという。
 事件の後、ダマラさんの遺体は夫人と共に故郷のネパールに帰り、1月21日、首都カトマンズの寺で葬儀が行われた。遺灰はガンジス川の源流に流された。生前、「僕が死んだらカトマンズとガンジスに帰してほしい」と語っており、その遺志に沿った形となった。
シュレスタさんは言う。
「僕はネパール人ですが、毎日接する相手の99%は日本人。自分が生きているのではなく、周りの素晴らしい日本人たちに支えられて生かされていると考えています。僕はもう日本を外国だとは思っていない。母国と同じ、大切な自分の国なのです。
 だから日本の社会を良い方に変えたいのです。ダマラさんの無念の死は悲しい出来事でしたが、それを、日本を変革する契機にしなければならない。目 の前に殴られている人がいるときに、逃げるのではなく、一歩踏み出して止める社会を創る。僕はそのために努力したいと思います」
 日本を愛し、ずっと住むつもりだったというダマラさん。その〝命がけの無抵抗〟が投げかけてくる課題を、私たちは真摯に受け止めなければならない。
「週刊現代」2012年3月3日号より

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